桜 2006

雨が降っている。
この雨が、今年も桜を散らすのだろう。

 桜並木の下を車で通る。
車道の両脇には、桜の花びらが積もっている。
桜の花びらなんて、スコップ一杯食べたって

腹のたしにもならないだろう。なのにかすかな
満腹感。満たされるのが、腹か胸かわからなくなる。しかし、ウインドウにへばり付いた桜の花びらのなんたる粘り強さ…、こいつには怨念がこもっている。

桜が散って、造園屋にとって忙しい季節がや
ってきた。
それにしても造園屋というのは水商売なのだとつくづく思う。春になって動きだして、しかし冬の間はじっと穴ぐらに潜んで息を潜めている熊のような時が、1年に何度かある。
造園屋は現在、実生活にあまり必要ない商売なのだ。庭も木もどうでも良ければ全く活躍する余地がない。金がなければ、わざわざそんな所に金をかける人がいるだろうか…。
飲食店や医者とは180度違う。


 先日、仕事をしていた向かいの家が新築で、ちょうど外構工事の真っ只中だった。
見ていると、色んな人が入れ代わり立ち代わり、少しずつ仕事をして帰って行く。カーポート、門扉、駐車場土間打ち、フェンス、植栽、…それぞれ別のパートを受け持った彼らは、黙って自分の仕事をして帰って行く。どうやら顔見知りでもないようだ。


僕らは何を作っているのだろう。
例えばそれが家でない何かとして、何かは何かなりにひとつの完成形を目指すものとして。
命は、背骨や物語のないところに宿るだろうか。手や足や頭をつければ人として喋り始めるのだろうか。

造園屋は完全に建築の一部に、それもオマケとしてしか存在しえないのか。


DIY
ホームセンターに行ったことのない人は少ないと思う。
私もよく行く。そして、最近は少し開き直ってきたが、以前は行くたびに体中に重いクサビを打たれたようで、うつむきトボトボと帰って来たものだった。
そこにはプロとアマチュアの壁をぶち壊す、各パートに細分化された商品と情報がふんだんにあったのだ。
ホームセンターの材料はプロの仕入れる材料より劣るなんて言っていられたのも最初のうちだけで、今ではほとんど見劣りしない。
情報、すなわちテクニックも今ではむしろ我々が学ぶべきものばかり。それらが安く切り売りされている。

造園屋はいらない、必要ない。成り立ちにくいモノつくり屋としては。

昔、造園学校の先生は言っていた。
「庭つくりなんかは歌手がやるもんだ」
今、本当のモノつくりは稀なタレントしか許されていないと言うこと。
社会が悪い、時代が変わった…という前に、もう少し価値あるものとして認められることはできないのか。必要と不必要とは別の次元にある、海の深さ・森の深さをあらわす
色的、音的な要素に目を向けてもらうことは・・・、難しい。

だからせめて、
喜ばれなければ意味がない。
いい関係を築き、いいモノを作って、頼んで良かったと思われなければ意味がない。
そんな日々の積み重ねにしか、物造りとしての我らの存在価値はない。


 桜の綺麗な湖に行き、湖の脇をはしる線路脇でつくしを摘んだ。
去年、友人がつくしを食べた翌日に奥さんが出産したという(根拠はないが)
女房の腹がでかく、こぼれ落ちそうで、そろそろ出して楽にしてやろうと考えた。
翌晩、つくしのおひたしを5本食べた。
ほろ苦い春の味がした。

2006年 4月