福  祉



HOTなテーマである。
とても熱く、下手に触れると大ヤケドを
しそうである。ましてや、そいつをつぶ
さに見て理解してやろうなんてやめたほ
うがいいでしょう。

老人福祉

人は年をとっていくと子供に戻っていく
という。
体力が衰え、それは知覚・視覚を含めた
感覚の衰えへとつながり、判断力・記憶
力さえも奪っていく。
福祉が広く弱者に対するいたわりから生
まれているとすれば、その部分において
は確かに福祉であろう。しかし、一般的に老人福祉施設に入居できるような方々は家族も含
め、実は経済的には強者といえることも少なくない。特に、高い入居料と家賃を支払い至れ
り尽くせりサービスが受けられる有料老人ホームの入居者に関してはその可能性が高い。

若者に「何をやりたいか」と問う
「福祉をやってみたい」と言う
転職者に「次はどんな仕事をやるのか」と問う
「資格をとって福祉の仕事に就きたい」と言う
その一方で、他業種において「貴方は以前に何をしておられたのですか」と問う
「いや、実は福祉関係の仕事をしていまして…」

イメージ先行の感はある。しかし、現実は当たらずといえども遠からず、それだけ福祉産業
における人材流入が活発であり、とはいえ未成熟な部分も多く、理想と現実とのギャップが
あることの裏返しともいえるだろう。

福祉、老人福祉の現場において…
鍵がかかっている(大抵の場合)
小綺麗な玄関先を仕切られたガラス張りの入口の先へは許可なくしては入れない。中からも
出られない。
認知症という問題がある
何故このような生物の原則に反するような症状がこれほどまでの確率で発生してしまうのか
不思議で仕方ない。
初めてそういう方と接した時、面と向かっていて自分を素通りしていくような不可解な視線
に愕然とした。一方、私が誰かわかっているかどうかは別として、目の前の私を意外な垣根
の低さで受け入れてくれている、最低限人としてのやりとりが成立することに安心したりも
した。
そしてすぐに気付く。
話しをしたがっている。誰も彼もが話しをしたがっている。
その視線の先には、いつも家族がいる。

老人ホームで働く人は圧倒的に若い人が多い。
現場は体力的にも精神的にも激務であること、現在の社会情勢、ますます増え続ける老人福
祉施設等を考えれば、自然の成り行きかもしれない。
しかし、例えば資格があり、勉強してきていたとしても社会経験や人生経験の少ない彼ら・
彼女らが相手にするのは、人生をやり尽くしてきた大先輩方なのである。
私がいつも肌身に感じて思うのは、相当な人格者でなければ大先輩方は心を開かないだろう
し、うまく接することも難しいのではないかということだ。
世代を超えて人と接するためのズルさとタフさは経験なくしてはそうそう身につくもんじゃ
ない。“礼”礼なくしては何も語れないが、それで全てカタがつくほど簡単なものじゃない。
若い人は重要だ。若い人は欠かすことができない。若い人がまいってしまったら元も子もな
い。
要は人格者うんぬんというよりも世代の近さ、共通の感覚をより多く持てる世代の存在が重
要なのではないか、ということだ。
若い人の数に見合ったバランスのとれた世代のスタッフ構成が、より重要なのだと思う。
 認知症の老人を見ていて時々思う。
ひょっとしてこの人達は全てわかっているのではないか…わかっていて、わからないフリを
しているのではないか…
無力感
若者が非行に走るように老人たちは・・・
双方からの悲鳴が時に聞える気がする。

そして、もう一つ福祉をわかりにくくしている奉仕という概念。
奉仕という大義名文に隠された無数の刃たち。綺麗ごとでありえない現実が、腫れ物に触る
かのように綺麗に何かでくるまれている。
ボランティアというウソくさい現実。
若者はもっとボランティアをすべきであり、ボランティアをしたがっている世代にはもっと
働く場を与えるべき。
でも若者に必要なのは仕事であるし。
現実、ボランティアはヒマと余裕の産物なのかもしれないし。

行政の助けと老人の自立が必要ではないでしょうか…。
(全ての世代が生きる仕組みづくり、キーワードは、自立と融和。)

福祉って何だろう・・・。
よくわからん。考えれば考えるほど、よくわからん。
ただ、局部を見て福祉というのではなく、全体を見たうえでの仕組みづくりが大切で、局部
の福祉はあくまで結果であるべきだと思う。
とはいえ
言うは易し、行うは難し

実際なんでもやってる人が一番尊い。
やれることがあるなら、やる。そして、出来るだけ続ける。
人生は短い。
                                 2005年 6月